季子は省線市川驛の待合所に
入つて腰掛に腰をかけた。然し東京へも、どこへも、行かうといふ
譯ではない。公園のベンチや路傍の石にでも腰をかけるのと同じやうに、唯ぼんやりと、しばらくの間腰をかけてゐやうといふのである。
改札口の高い壁の上に裝置してある時計には故障と書いた貼紙がしてあるので、時間はわからないが、出入の人の混雜も日の暮ほど烈しくはないので、夜もかれこれ八時前後にはなつたであらう。札賣る窓の前に行列をする人數も次第に少く、入口の
側の賣店に並べられてあつた夕刊新聞ももう賣切れてしまつたらしく、おかみさんは殘りの品物をハタキではたきながら店を片付けてゐる。向側の腰掛には作業服をきた男が一人荷物を枕に前後を知らず仰向けになつて眠つてゐる。そこから折曲つた壁に添うて改札口に近い腰掛には制帽の學生らしい男が雜誌をよみ、買出しの荷を背負つたまゝ婆さんが二人煙草をのんでゐる外には、季子と並んでモンペをはいた色白の人妻と、膝の上に買物袋を載せた洋裝の娘が赤い鼻緒の下駄をぬいだりはいたりして、足をぶら/\させてゐるばかりである。
色の白い奧樣は改札口から
人崩の溢れ出る度毎に、首を伸し浮腰になつて歩み過る人に氣をつけてゐる中、やがて折革包を手にした背廣に中折帽の男を見つけて、呼掛けながら馳出し、出口の外で追ひついたらしい。
季子は今夜初てこゝに來たのではない。この夏、姉の家の厄介になり初めてから折々憂欝になる時、ふらりと外に出て、蟇口に金さへあれば映畫館に入つたり、闇市をぶらついて立喰ひをしたり、そして省線の驛はこの市川ばかりでなく、一ツ先の元八幡驛の待合所にも入つて休むことがあつた。その度々、別に氣をつけて見るわけでもないが、この邊の町には新婚の人が多いせいでもあるのか、夕方から夜にかけて、勤先から歸つて來る夫を出迎へる奧樣。また女の歸つて來るのを待合す男の多いことにも心づいてゐた。季子はもう十七になつてゐるが、然し戀愛の
[#「戀愛の」は底本では「變愛の」]經驗は一度もした事がないので、さほど羨しいとも
厭らしいとも思つたことはない。唯腰をかけてゐる間、あたりには何一ツ見るものがない爲、遣場のない眼をさう云ふ人達の方へ向けるといふまでの事で、心の中では現在世話になつてゐる姉の家のことしか考へてゐない。姉の家にはゐたくない。どこか外に身を置くところはないものかと、さし當り
目當のつかない事ばかり考へつゞけてゐるのである。
この前來た時には短いスカートからむき出しの兩足を隨分蚊に刺されたが、今はその蚊もゐなくなつた。二人づれで凉みに來たり、子供を遊ばせに來る女もゐたが今はそれも見えない。時候はいつか秋になり、その秋の夜も大分露けくなつた。と思ふと、ます/\現在の家にゐるのがいやで/\たまらない氣がして來る……。
季子は三人
姉妹の中での季娘で、二人の姉がそれ/″\結婚してしまつた後、母と二人埼玉縣の或町に疎開してゐたが、この春母が病死して、差當り行く處がないので、此町の銀行で課長をしてゐる人に片付いた一番年上の姉の
許に引取られたのだ。姉には三ツになる男の子がある。
義兄は年の頃四十近く、職務のつかれよりも上役の機嫌と同僚の氣受を窺ふ氣づかれに精力を消耗してしまつたやうに見える有りふれた俸給生活者。姉も同じく、配給所の前に立並ぶ女達の中には少くとも五六人は似た顏立を見るやうな奧さんである。ヒステリツクでもなく、と云つて、さほど
野呂間にも見えず
華美好きでも吝嗇でもない。掃除好きでもない代り、また決して
無性でもない。洗濯も怠らず針仕事や編物も嫌ひではないと云ふやうな奧さんである。毎日きまつた時間に夫が歸つて來ると、新聞で見知つた世間の出來事、配給物のはなし、子供の健康――日々きまつた同じ話を繰返しながら、いつまでも晩飯の茶ぶ臺を離れず、ラヂオの落語に夫婦二人とも大聲で笑つたり、長唄や流行歌をいかにも感に堪へたやうに聞きすます。その中臺所で鼠のあれる音に氣がついて、茶ぶ臺を片づけるのが、其日の生活の終りである。
さういふ家庭であるから、季子はそれほど居づらく思ふわけの無い事は、自分ながら能く承知してゐるのだ。自分の方から進んで手傳ふ時の外、洗ひものも掃除も姉から言ひつけられたことはない。兄はまた初めから何に限らず小言がましく聞えるやうな忠告はした事がなく、郵便を出させにやる事も滅多にない。日曜日に子供も一緒に夫婦連立つて買物方々出歩かうと云ふ折など、「季ちやん。一緒に行くかね。」と誘ふこともあるが、是非にと云ふ程の樣子は見せず、さうかと云つて留守をたのむとも言はない。季子はおのづと家に居殘るやうになると、却て元氣づき、聲を張り上げて流行唄を歌ひながら、洗濯をしたり、臺所の物を片づけたりした後、戸棚をあけて食殘りの物を皿まで嘗めてしまつたり、配給の薩摩芋をふかして色氣なく
貪り
食ふ。又ぼんやり勝手口へ出て垣根の杭に寄りかゝりながら晴れた日の空や日かげを見詰めてゐる事もあつた。
季子はどうして姉の家にゐるのがいやなのか、自分ながらその心持がわからなかつたのであるが、
日數のたつに從ひ、靜に考へて見ると、姉の家が居づらいのではなくて、それは別の事から起つて來る感情の爲である事に心づいて來た。自分はさし當りこゝより外に身を置く處がない事を意識するのが、情けなくていやなのである。自分にはこゝばかりでなく、外に行く處はいくらもあるが、好んで此の家に來てゐると云ふやうに若しも思ひなす事ができたなら、自分は決していやだとも
居辛いとも、そんな妙な心持にはならなかつたであらう。然し實際は全くそれとは相違して、こゝより外に行きどころのない身である事は明瞭である。さう思ふと心細く悲しくなると同時に、何も彼も癪にさはつて
腹が立つて來てたまらなくなるのである。
どんな職業でもかまはない。季子は女中でも子守でも、車掌や札切でもいゝから、どこにか雇はれたいと思つてゐるが、それは姉夫婦が許してくれさうにも思はれない。人に聞かれても外聞の惡くないやうな會社や役所の事務員には、疎開や何かの爲高等女學校は中途で止してしまつたまゝなので、採用される資格が無い……。
ふと思ひ返すと、市川の姉の家へ引取られて、わづか四五日にしかならない頃であつた。一番上の姉よりもずツといゝ處へ片付いてゐる二番目の姉が鎌倉の屋敷から何かの用事で尋ねて來た時、話のついでに此頃は復員でお嫁さんを搜してゐるものが多いから、季子も十七なら、いつそ今の中結婚させてしまつた方がいゝかも知れないと言つてゐたのを、
蔭でちらりと聞いたことがあつた。
その當座、季子は落ちつかないわく/\した心持で、茶ぶ臺に坐るたび/\姉や兄の樣子ばかり氣にしてゐたが、その話は今だに二人の口からは言出されない。季子は自分の方から切出して見やうかと思つたこともあるが、氣まりが惡いまゝ、それもいつか、それなりに、季子は日のたつと共に自分の方でも忘れるともなく忘れてしまつた。
見
すと、あたりはいつの
間にか大分靜になつてゐる。荷物を枕にぐう/\眠つてゐた職工もどこへか行つてしまひ、下駄をはいたりぬいだり足をぶら/\させてゐた娘の立去つた
跡には、子供をおぶつた女が腰をかけて居眠りをしてゐる。
その時季子は烟草の匂につれて其烟が横顏に流れかゝるのに心づき、何心なく見返ると、
「京成電車の驛は遠いんでせうか。」ときくものがある。
いつの
間にか自分の隣りに、背廣に鳥打帽を冠つた年は二十四五、子供らしい
面立の殘つてゐる一人の男が腰をかけてゐた。然し季子は自分に話しかけたのではないと思つて、默つてゐると、
「京成の市川驛へはどつちへ行つたらいゝんでせう。」
季子はスマートな樣子に似ず妙な事をきく人だと思ひながら、
「京成電車にはそんな驛はありません。」
「さうですか。市川驛は省線ばかりなんですか。」
「えゝ。」と云つて息を引く拍子に、季子は烟草の烟を吸込んでむせやうとした。
「失禮。失禮。」と男は手を擧げて烟を拂ひながら立上り、出口から見える闇市の
灯を眺めてゐたが、そのまゝ振返りもせずに出て行つた。
列車の響と共に汽笛の聲がして、上りと下りの電車が前後して着いたらしく、改札口は駈け込む人と、押合ひながら出て來る人とで俄に混雜し初めたが、それも嵐の過ぎ去るやうに忽ちもとの靜けさに立返る。
季子は聲まで出して思ふさま大きな
欠伸をしつゞけたが、こんな處にはもう我慢してもゐられないとでも云ふやうに、腰掛を立ち、來た時のやうにぶらり/\夜店の灯の見える方へと歩き初めた。
夜店の女達は立止つたり通り過ぎたりする人を呼びかけて、
「甘い羊羹ですよ。
甘いんですよ。」
「あん
麺麭はいかゞです。」
「もうおしまひだ。安くまけますよ。」
道の曲角まで來ると先程驛の事をきいた鳥打帽の青年が電信柱のところに立つてゐて、季子の姿を見とめ、
「もうお歸りですか。」
季子は知らない振もしてゐられず、ちよつと笑顏を見せて、そのまゝ歩き過ると、男も少し離れて同じ方向へと歩き初める。
江戸川堤から八幡中山を經て遠く船橋邊までつゞく國道である。立並ぶ商店と映畫館の燈火に明く照らされた道の兩側には、ところどころ小屋掛をしたおでん屋汁粉屋燒鳥屋などが出てゐて、夜風に暖簾を飜してゐる。
「お汁粉一杯飮んで行きませうよ。」
男はつと立止つて、さアと言はぬばかり、季子の顏を見詰めながら、一人
先へ
入つたが、腰掛にはつかず立つたまゝ、季子の
入るのを待つてゐる樣子に、そのまゝ行つてもしまはれず、季子はもぢ/\しながらその
傍に腰をかけた。
一杯目の汁粉を飮み終らぬ中、「もう一杯いゝでせう。割合に甘い。」と男は二杯目を註文した。
季子は初めから何とも言はず、わざと子供らしく、勸められるがまゝ、二杯目の茶碗を取上げたが、其時には大分氣も落ちついて來て、まともに男の顏や樣子をも見られるやうになつた。それと共に、かうした場合の男の心持、と云ふよりは男の目的の何であるかも、今は
容易く推察することが出來るやうな氣がして
來た。二人はもとより知らない人同士である。これなり別れてしまへば、互に家もわからず名前も知られる氣づかひがない。何をしても、何をされても、後になつて困るやうな事の起らう筈がない間柄である。さう思ふと年頃の娘の異性に對する好奇心のみならず、季子は監督者なる姉夫婦に對して、其人達の知らない中に、そつと自分勝手に大膽な冐險を敢てすると云ふ、一種痛快な氣味のいゝ心持の伴ひ起るのを知つた。
汁粉屋を出てから、また默つて歩いて行くと、商店の燈火は次第に少く、兩側には茅葺の屋根やら生垣やらが續き初め、道の行手のみならず、人家の間からも茂つた松の
木立の空に聳えるのが、星の光と共に物淋しく見えはじめる。走り過るトラツクの灯に、眞直な國道の行手までが遙に照し出されるたび/\、荷車や人の
往來も一歩々々途絶え
勝ちになることが能く見定められる。
鳥打帽の男は默つてついて來る。季子は汁粉屋にゐた時の大膽不敵な覺悟に似ず、俄に歩調を早め、やがて道端のポストを目當に、逃るやうにとある
小徑へ曲らうとした。男はぐつと身近に寄り添つて來て、
「お宅はこの横町……。」
「えゝ。」と季子は答へた。然し季子の家は横町を行盡して、京成電車の踏切を越し、それからまだ大分歩かなければならないのだ。
小徑の兩側には生垣や竹垣がつゞいてゐて、國道よりも一層さびしく人は一人も通らないが、門柱の電燈や、窓から漏れる人家の
灯影で
眞の闇にはなつてゐない。季子の呼吸は歩調と共に大分せはしくなつてゐる。男はどこまで自分の後をつけて來るのだらう。線路を越した向の松原――時々この邊では一番物騷な噂のある松原まで行くのを待つてゐるのではなからうか。いつそ今の中、手出しをしてくれゝばいゝのにと云ふやうな氣がして來ないでもない。
季子が男の暴力を想像して、恐怖を交へた好奇の思に驅られ初めたのは、母と共に熊ヶ谷に疎開してゐた頃からのことで、戰後物騷な世間の噂を聞くたび/\、まさかの場合を、或時はいろいろに空想して見ることもあつた。この空想は鎌倉の姉が來て結婚のはなしを
匂はせてからいよ/\烈しくなり、深夜奧の間で姉夫婦がひそ/\はなしをしてゐるのにふと目を覺す時など、翌朝まで寢付かれぬ程其身を苦しめる事があつた。
突然季子は垣際に立つてゐる松の木の根につまづき、よろける其身を覺えず男に投掛けた。男は兩手に女の身を支へながら、別に抱締るでもなく、女が身體の中心を取返すのを待ち、
「どうかしました。」
「いゝえ。大丈夫よ。あなたも此邊なの。」
「僕。八幡の、會社の寮にゐるんです。今夜驛でランデブーするつもりだつたんです。失敗しました。」
「あら。さう。」
「あなたも誰かとお約束があつたんでせう。さうぢやありませんか。」
生垣が盡きて片側は廣い畠になつてゐるらしく、遙か向うの松林の間から此方へ走つて來る電車の灯が見えた。
季子はあたりのこの淋しさと暗さとに乘じて、男が手を
下し初めるのはきつと此邊にちがひはない。いよ/\日頃の妄想の實現される時が來たのだと思ふと、忽身體中が顫出し、歩けばまた轉びさうな氣がして、一足も先へは踏み出されなくなつた。畠の縁に茂つた草が柔く
擽るやうに足の指にさはる。季子は突然そこへ
蹲踞んでしまつた。
季子は男の腕が矢庭に自分の身體を突倒すものとばかり思込んで、
蹲踞むと共に眼をつぶつて兩手に顏をかくした。
電車は松林の外を通り過ぎてしまつた。けれども自分の身體には何も觸るものがない。手を放し顏をあげて見ると、男は初め自分が草の上に
蹲踞んだのに心づかず、二三歩行き過ぎてから氣がついたらしく、少し離れた處に立つてゐて、
「田舍道はいゝですね。僕も失禮。」と笑を含む聲と共に、草の中に水を流す音をさせ始めた。男は季子の蹲踞んだのは同じやうな用をたすためだと思つたらしい。
季子は立上るや否や、失望と恥しさと、腹立しさとに、覺えず、「左樣なら。」と鋭く言捨て、もと來た小徑の方へと走り去つた。
やがて
未練らしく立留つて見たが、男の追掛けて來る樣子はない。先程
躓いた松の木の梢に梟か何かの鳴く聲がしてゐる。
季子はしよんぼりと一人家へかへつた。
(昭和廿一年十月草)
雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。門のない門の前を、
吾妻橋の方へ少し行くと、左側の
路端に乗合自動車の
駐る知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い
横町への曲角で、人の
込合う中でもその最も烈しく込合うところである。
ここに
亀戸、
押上、
玉の
井、
堀切、
鐘ヶ
淵、
四木から
新宿、
金町などへ行く乗合自動車が駐る。
暫く立って見ていると、玉の井へ行く車には二種あるらしい。一は市営乗合自動車、一は
京成乗合自動車と、
各その車の
横腹に書いてある。市営の車は藍色、京成は黄いろく塗ってある。案内の女車掌も各一人ずつ、腕にしるしを付けて、路端に立ち、雷門の方から車が来るたびたびその行く方角をきいろい声で知らせている。
或夜、まだ暮れてから
間もない時分であった。わたくしは案内の女に教えられて、黄色に塗った京成乗合自動車に乗った。路端の混雑から考えて、とても腰はかけられまいと思いの外、乗客は七、八人にも至らぬ中、車はもう動いている。
活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い
雨外套を着た職工風の男が一人、
絣りの着流しに
八字髯を
生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、
妾風の
大丸髷に
寄席芸人とも見える
角袖コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた
襟付の
袷に
半纏を重ねた
遣手婆のようなのが一人――いずれにしても
赤坂麹町あたりの電車には、あまり見掛けない人物である。
車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、
向嶋行の電車と前後して北へ曲り、
源森橋をわたる。両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば
小梅あたりを行くのだろうと思っている
中、車掌が次は
須崎町、お降りは御在ませんかといった。
降る人も、乗る人もない。車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える。
車掌が
弘福寺前と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築せられた弘福禅寺の堂宇を見ようとしたが、外は暗く、唯低い
樹の茂りが見えるばかり。やがて公園の入口らしい処へ
駐って、車は川の見える堤へ
上った。堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、
長命寺はとうに過ぎて、むかしならば
須崎村の
柳畠を見おろすあたりである事がわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く
小家は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた
納簾を飜しているのもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない。
車は
小松嶋という停留場につく。雨外套の職工が降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した
地蔵阪というのは、むかし百花園や
入金へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、
路端に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな
幟が紅白
幾流れともなく立っている。
淫祠の興隆は時勢の力もこれを阻止することが出来ないと見える。
行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、
白髯橋のたもとに来たことがわかる。
橋袂から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った。狭い道は薄暗く、
平家建の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし
燈火は行くに従って次第に多く、家もまた二階建となり、
表付だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった。
わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、
橋銭を取っていた時分のことを思返した。隅田川と中川との間にひろがっていた
水田隴畝が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工事と共に、その辺の
艶しい家が取払われた時からであろう。当時凌雲閣の近処には依然としてそういう
小家がなお数知れず残っていたが、震災の火に焼かれてその跡を絶つに及び、ここに玉の井の名が俄に
言囃されるようになった。
女車掌が突然、「次は局前、郵便局前。」というのに驚いて、あたりを見ると、右に灰色した大きな建物、左に『
大菩薩峠』の幟を飜す活動小屋が立っていて、
煌々と灯をかがやかす両側の商店から、ラヂオと蓄音機の歌が聞える。
商店の中で、シャツ、ヱプロンを吊した雑貨店、
煎餅屋、おもちゃ屋、下駄屋。その中でも殊に
灯のあかるいせいでもあるか、薬屋の店が幾軒もあるように思われた。
忽ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が、「劇場前」と呼ぶので、わたくしは燈火や
彩旗の見える片方を見返ると、絵看板の間に向嶋劇場という金文字が輝いていて、これもやはり活動小屋であった。二、三人残っていた乗客はここで皆降りてしまって、その代り、汚い包をかかえた田舎者らしい四十前後の女が二人乗った。
車はオーライスとよぶ女車掌の声と共に、動き出したかと思う間もなく、また駐って、「玉の井車庫前」と呼びながら、車掌はわたくしに目で知らせてくれた。わたくしは初め行先を聞かれて、
賃銭を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を
憚らず頼んで置いたのである。
車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店などの中で、薬屋が多く、次は下駄屋と水菓子屋が目につく。
左側に玉の井館という寄席があって、
浪花節語りの名を染めた幟が二、三流立っている。その鄰りに常夜燈と書いた
灯を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い
提灯をつるした堂と、
満願稲荷とかいた
祠があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。
これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内のはずれに、
燈影の見えない
二階家が立ちつづいていて、その下六尺ばかり、通路になった処に、「ぬけられます。」と横に書いた
灯が出してある。
わたくしは人に道をきく
煩いもなく、構内の水溜りをまたぎまたぎ灯の下をくぐると、
家と
亜鉛の
羽目とに
挟まれた三尺幅くらいの路地で、右手はすぐ行止りであるが、左手の方に行くこと十歩ならずして、幅一、二
間もあろうかと思われる溝にかけた橋の上に出た。
橋向うの左側に「おでんかん酒、あづまや」とした
赤行燈を出し、
葭簀で囲いをした居酒屋から、
※[#「魚+昜」、U+9C11、254-6]を焼く匂いがしている。溝際には塀とも目かくしともつかぬ板と葭簀とが立ててあって、青木や
柾木のような植木の鉢が数知れず置並べてある。
ここまでは、
一人も人に逢わなかったが、板塀の
彼方に奉納の幟が立っているのを見て、
其方へ行きかけると、路地は忽ち四方に分れていて、背広に
中折を
冠った男や、金ボタンの制服をきた若い男の姿が、途絶えがちながら、あちこちに動いているのを見た。思ったより混雑していないのは、まだ夜になって間もない故であるのかも知れない。
足の向く方へ、また十歩ばかりも歩いて、路地の分れる角へ来ると、また「ぬけられます。」という
灯が見えるが、さて
其処まで行って、今歩いて来た
後方を顧ると、
何処も
彼処も一様の
家造りと、一様の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなる。おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって、同じような植木鉢が並べてある。しかしよく見ると、それは決して同じ路地ではない。
路地の両側に立並んでいる二階建の家は、表付に幾分か相違があるが、これも近寄って番地でも見ないかぎり、全く同じようである。いずれも三尺あるかなしかの
開戸の傍に、一尺四方位の窓が適度の高さにあけてある。適度の高さというのは、路地を歩く男の目と、窓の中の
燈火に照らされている女の顔との距離をいうのである。窓際に立寄ると、少し腰を
屈めなければ、女の顔は見られないが、歩いていれば、窓の顔は四、五軒一目に見渡される。誰が考えたのか巧みな
工風である。
窓の女は人の
跫音がすると、姿の見えない中から、チョイトチョイト旦那。チョイトチョイト眼鏡のおじさんとかいって呼ぶのが、チイト、チイートと妙な
節がついているように聞える。この妙な声は、わたくしが
二十歳の頃、吉原の羅生門横町、
洲崎のケコロ、または浅草公園の裏手などで聞き馴れたものと、少しも変りがない。時代は
忽然三、四十年むかしに逆戻りしたような心持をさせたが、そういえば溝の水の流れもせず、泡立ったまま沈滞しているさまも、わたくしには
鉄漿溝の埋められなかった昔の吉原を思出させる。
わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない。両側の窓から呼ぶ声は一歩一歩
急しくなって、「旦那、ここまで入らっしゃい。」というもあり、「おぶだけ
上ってよ。」というのもある。中には唯笑顔を見せただけで、呼止めたって上る気のないものは上りゃしないといわぬばかり、おち付いて黙っているのもある。
女の風俗はカフェーの女給に似た和装と、酒場で見るような洋装とが多く、中には山の手の芸者そっくりの島田も
交っている。服装のみならず、その容貌もまた東京の町のいずこにも見られるようなもので、即ち、看護婦、派出婦、
下婢、女給、女車掌、女店員など、地方からこの首都に集って来る若い女の顔である。現代民衆的婦人の顔とでも言うべきものであろう。この顔にはいろいろの種類があるが、その表情の
朴訥穏和なことは、殆ど皆一様で、
何処となくその運命と境遇とに甘んじているようにも見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物
見切の安売りをする時、品物に注がれるような鋭い目付はここには見られない。また女学校の入学試験に合格しなかった時、娘の顔に現われるような表情もない。
わたくしはここに一言して置く。わたくしは医者でもなく、教育家でもなく、また現代の文学者を以て自ら任じているものでもない。
三田派の或評論家が言った如く、その趣味は俗悪、その人品は低劣なる
一介の
無頼漢に過ぎない。それ故、知識階級の夫人や娘の顔よりも、この窓の女の顔の方が、両者を比較したなら、わたくしにはむしろ
厭うべき感情を起させないという事ができるであろう。
呼ばれるがまま、わたくしは窓の傍に立ち、勧められるがまま
開戸の中に
這入って見た。
家一軒について窓は二ツ。
出入の戸もまた二ツある。女一人について窓と戸が一ツずつあるわけである。窓の戸はその内側が鏡になっていて、
羽目の高い処に小さな
縁起棚が設けてある。壁際につッた別の棚には化粧道具や絵葉書、人形などが置かれ、一輪ざしの
花瓶には花がさしてある。わたくしは円タクの窓にもしばしば同じような花のさしてあるのを思い合せ、こういう人たちの間には何やら共通な趣味があるような気がした。
上框の板の間に上ると、
中仕切りの
障子に、赤い
布片を
紐のように細く切り、その先へ重りの鈴をつけた
納簾のようなものが一面にさげてある。女はスリッパアを揃え直して、わたくしを迎え、納簾の紐を分けて二階へ案内する。わたくしは
梯子段を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、
箪笥、
茶ぶ
台、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの広い座敷には、
寝台、
椅子、
卓子を据え、壁には壁紙、窓には窓掛、畳には敷物を敷き、天井の電燈にも装飾を施し、テーブルの上にはマッチ灰皿の
外に、『スタア』という雑誌のよごれたのが一冊載せてあった。
女は下から黒塗の
蓋のついた湯飲茶碗を持って来て、テーブルの上に置いた。わたくしは
啣えていた巻煙草を灰皿に入れ、
「今日は見物に来たんだからね。お茶代だけでかんべんしてもらうよ。」といって
祝儀を出すと、女は、
「こんなに貰わなくッていいよ。お
湯だけなら。」
「じゃ、こん度来る時まで預けて置こう。ここの家は何ていうんだ。」
「高山ッていうの。」
「町の名はやっぱり
寺嶋町か。」
「そう。七丁目だよ。一部に二部はみんな七丁目だよ。」
「何だい。一部だの二部だのッていうのは。何かちがう処があるのか。」
「同じさ。だけれどそういうのよ。改正道路の向へ行くと四部も五部もあるよ。」
「六部も七部もあるのか。」
「そんなにはない。」
「昼間は何をしている。」
「四時から店を張るよ。昼間は静だから入らっしゃいよ。」
「休む日はないのか。」
「月に二度公休しるわ。」
「どこへ遊びに行く。浅草だろう。大抵。」
「そう。
能く行くわ。だけれど、大抵近所の活動にするわ。
同なじだもの。」
「お前、
家は北海道じゃないか。」
「あら。どうして知ってなさる。小樽だ。」
「それはわかるよ。もう長くいるのか。」
「ここはこの春から。」
「じゃ、その前はどこにいた。」
「
亀戸にいたんだけど、
母さんが病気で、お金が
入るからね。こっちへ変った。」
「どの位借りてるんだ。」
「千円で四年だよ。」
「これから四年かい。大変だな。」
「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」
「そうか。」
下で
呼鈴を鳴す音がしたので、わたくしは椅子を立ち、バスへ乗る近道をききながら下へ降りた。
外へ出ると、人の
往来は漸く
稠くなり、チョイトチョイトの呼声も反響するように、路地の四方から聞えて来る。安全通路と高く掲げた灯の下に、人だかりがしているので、喧嘩かと思うと、そうではなかった。ヴィヨロンの音と共に、
流行唄が聞え出す。
蜜豆屋がガラス皿を窓へ運んでいる。
茹玉子林檎バナナを手車に載せ、
後から押してくるものもある。物売や車の通るところは、この別天地では目貫きの大通であるらしい。こういう処には、
衝立のような板が立ててあって、さし向いの家の窓と窓とが、互に見えないようにしてある。
わたくしは路地を右へ曲ったり、左へ折れたり、ひや
合いを抜けたり、軒の下をくぐったり、足の向くまま歩いて行く
中、一度通った処へまた出たものと見えて、「あら、浮気者。」「知ってますよ。さっきの旦那。」などと言われた。忽ち真暗な広い道のほとりに出た。もと鉄道線路の敷地であったと見え、
枕木を
掘除いた跡があって、ところどころに水が溜っている。両側とも板塀が立っていて、その
後の人家はやはり同じような路地の世界をつくっているものらしい。
線路
址の
空地が真直に闇をなした彼方のはずれには、往復する自動車の灯が見えた。わたくしは
先刻茶を飲んだ家の女に教えられた改正道路というのを思返して、板塀に沿うて
其方へ行って見ると、近年東京の
町端れのいずこにも開かれている広い一直線の道路が走っていて、その片側に並んだ夜店の納簾と人通りとで、歩道は歩きにくいほど賑かである。沿道の商店からは蓄音機やラヂオの声のみならず、開店広告の笛太皷も聞える。盛に油の臭気を放っている屋台店の後には、円タクが列をなして帰りの客を待っている。
ふと見れば、乗合自動車が
駐る知らせの柱も立っているので、わたくしは紫色の灯をつけた車の来るのを待って、それに乗ると、来る人はあってもまだ帰る人の少い時間と見えて、人はひとりも乗っていない。何処まで行くのかと車掌にきくと、雷門を過ぎ、
谷中へまわって上野へ出るのだという。
道の真中に突然赤い灯が輝き出して、乗合自動車が駐ったので、其方を見ると、二、三輌連続した電車が行手の道を横断して行くのである。踏切を越えて、町が
俄に暗くなった時、車掌が「
曳舟通り」と声をかけたので、わたくしは土地の名のなつかしさに、
窓硝子に
額を押付けて見たが、木も水も何も見えない中に、早くも市営電車向嶋の終点を通り過ぎた。それから先は電車と前後してやがて吾妻橋をわたる。
河向に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時……。
昭和十一年四月